ごあいさつ
筆を正しく使えれば、思うとおりにさまざまな書がかけます。
文字を書くことは、私たちの生活になくてはならないものです。
しかも、芸術の域にまで達することのできる奥深い世界への入り口です。
淡江社教室では、先達の指導法を受け継いで、よく準備されたカリキュラムと教材で、指導者が一対一で、文字通り、手をとって丁寧に指導します。
誰でも、順を踏んで学ぶことで、自分の思うままの書作品を制作したり、古典を鑑賞したりできるようになります。
私たちは、書を学び、楽しみ、豊かな生き方を得たいと願っています。そして、より多くの方々にこの素晴らしい書の世界をお伝えしたいと願うものです。
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淡江社のあゆみ
大正初期 | 乾淡江により創設。 後、長江に引き継がれたが、戦時下諸事情により一時中断。 |
1962年(昭和37年) | 淡江社再発足。 |
1966年(昭和41年5月) | 淡江社翰墨展を銀座三菱電気ギャラリーにて開催。 |
1967年(昭和42年5月) | 第2回淡江社翰墨展を銀座三菱電気ギャラリーにて開催。 |
1968年(昭和43年5月) | 第3回淡江社翰墨展を銀座東芝展示フロアにて開催。 |
1969年(昭和44年6月) | 第4回淡江社翰墨展を銀座東芝展示フロアにて開催。 |
1970年(昭和45年12月) | 第5回淡江社翰墨展を銀座東芝展示フロアにて開催。 |
1972年(昭和47年1月) | 第6回淡江社翰墨展を銀座東芝展示フロアにて開催。 |
1973年(昭和48年6月) | 第7回淡江社翰墨展を新橋・東タイ画廊にて開催。 |
1974年(昭和49年9月) | 第8回淡江社翰墨展を東芝銀座ショールーム、ギャラリーにて開催。 |
1975年(昭和50年10月) | 第9回淡江社翰墨展を銀座・十字屋画廊にて開催。 |
1976年(昭和51年10月) | 第10回淡江社翰墨展を神田・東京YMCA101号室にて開催。 |
1978年(昭和53年3月) | 「乾淡江書岩田翁記功碑」出版。 |
1978年(昭和53年4月) | 乾淡江先生50年祭記念・第11回淡江社翰墨展を新宿・東京金属健保会館にて開催。 |
1979年(昭和54年11月) | 第12回淡江社翰墨展を新宿文化センターにて開催。 |
1981年(昭和56年6月) | 第13回淡江社翰墨展を新宿・金属健保会館にて開催。 |
1982年(昭和57年) | 1月より9月までの間、5回にわたり「入木抄」の公開講座を新宿文化センターその他で開催。 |
1983年(昭和58年6月) | 第14回淡江社翰墨展を新宿文化センターにて開催。 |
1983年(昭和58年) | 11月より翌年7月までの間、4回「書法のルーツを求めて」の公開講座を新宿文化センターにて開催。 |
1985年(昭和60年10月) | 乾長江傘寿記念 第15回淡江社翰墨展を新宿・朝日生命ギャラリーにて開催。 |
1988年(昭和63年5月) | 第16回淡江社翰墨展を新宿・朝日生命ギャラリーにて開催。 |
1990年(平成2年5月) | 第17回淡江社翰墨展を新宿・朝日生命ギャラリーにて開催。 |
1992年(平成4年5月) | 第18回淡江社翰墨展を有楽町朝日ギャラリーにて開催。 |
1993年(平成5年11月) | 乾長江米寿記念 第19回淡江社翰墨展を六本木・麻布美術工芸館にて開催。 |
1994年(平成6年7月) | 乾長江永眠。 |
1995年(平成7年11月) | 乾長江追悼 第20回淡江社翰墨展を六本木・麻布美術工芸館にて開催。 |
1997年(平成9年11月) | 第21回淡江社翰墨展を六本木・麻布美術工芸館にて開催。 |
1999年(平成11年11月) | 第22回淡江社翰墨展を有楽町朝日ギャラリーにて開催。 |
2001年(平成13年11月) | 第23回淡江社翰墨展を有楽町朝日ギャラリーにて開催。 |
2003年(平成15年11月) | 第24回淡江社翰墨展を有楽町朝日ギャラリーにて開催。 |
2006年(平成18年2月) | 生誕百年記念「乾長江遺墨展」東京銀座画廊にて開催。 |
2007年(平成19年12月) | 第25回淡江社翰墨展を東京銀座画廊にて開催。 |
2009年(平成21年11月) | 第26回淡江社翰墨展を有楽町朝日ギャラリーにて開催。 |
2012年(平成24年3月) | 第27回淡江社翰墨展を有楽町朝日ギャラリーにて開催。 |
2014年(平成26年6月) | 第28回淡江社翰墨展を有楽町朝日ギャラリーにて開催。 |
2015年(平成27年11月) | 第29回淡江社翰墨展を有楽町朝日ギャラリーにて開催。 |
2017年(平成29年11月) | 第30回淡江社翰墨展を有楽町朝日ギャラリーにて開催。 |
2019年(令和1年11月) | 第31回淡江社翰墨展を有楽町朝日ギャラリーにて開催。 |
2022年(令和4年11月) | 第32回淡江社翰墨展を有楽町朝日ギャラリーにて開催。 |
乾 淡江とその流れ
⚫︎乾淡江は、名は角太郎、字は蔵角、角然ともいい、又、百芝山房道人、無礙光斎とも称した。
⚫︎明治7年4月10日山梨県東山梨郡山村大村藤兵衛次男に生る。
⚫︎甲府中学より済世学舎(医学校)に入学、医師を志す。
⚫︎明治27年大阪府三島郡安威村乾家の養子となり、吉兵衛長女フミと結婚し、日ならずして、日清戦役に従軍旅順に赴き海軍軍医部に配属される。
⚫︎爾後、中国に在って用務の傍ら研究した書学と法帖、古碑の探求とが、後日の淡江の書法理論の根幹をなしたと見ることが出来る。
乾 淡江 代表作品
乾 長江
乾 長江
●1906年(明治39年)生まれ
●法政大学経済学部卒。慶応義塾特薦塾員。
●慶應義塾・法政大学書道会・法政大学高等商業部・文化学院・臨時東京第一陸軍病院・東洋大学文学部等に於て書道の指導。
●淡江社理事、淡江社書法研究所の指導。
●著書 『基本筆法』、『長江千字文 草篇』、『王維九品』、『乾長江臨石鼓文』その他。
厳格にして究極の書法 乾 長江 書の世界『書道藝術』1986年11月号より転載
『 乾 長江の書 』文/春名好重
乾 長江は、1906年(明治39年)に淡江(本名角太郎)を父とし、玉江(本名フミ)を母として生まれた。長じて法政大学経済学部を卒業したが、父淡江も母玉江も能書としてすぐれた人であったから、父母の感化影響によって、若年のころより書法を学ぶことに最も努力した。そして、能書として一家を成し、父淡江が創設した淡江社を再建して、後進の指導に尽力した。
乾 淡江(旧姓大村)は1874年(明治7年)に山梨県東山梨郡山村で生まれた。医学を済世学舎に学び、1994年(明治27年)、旅順の海軍々医部に配属された。爾来十年余中國に留まり公務の傍ら古碑や書学の研究をしていた。日清講和後、淡江は、フミ玉江を台北に呼んだ。この頃マカイ神父のすすめで本島(台湾)人の医師を養成するため日本の医書を中国語に翻訳しつつその教育に当たっていた。(注①)
また一方、淡江は書家の杜逢時、洪以南、許均(注②)らとの交友をもち書に対する基本的な問題を検討する機会を得た。此の頃から淡江と号した。
1906年(明治39年)に帰国して、東京の神田一ツ橋に書法学院を設立し、書法教授を始めた。
淡江の教授法は用筆法を最も重視した。そして、書法学習の第一義は筆の構造を理解し、筆毛の弾力性を利用することにあると考えた。すなわち、筆をむりに用いないようにすることにあると考えたのである。筆の鋒は獣毛で作られている。獣毛には弾力がある。弾力を利用して書くと、自然に書くことができる。そして、むりが無いから、じょうずに書くことができるのである。それ故、正しい用筆法を正しく習得することは、書法の学習において最も大切なことである。淡江は淡江の用筆法を「蔵鋒の筆法」といった。
大正の初め交詢社翰墨会・電気倶楽部書道会等の講師として書の普及指導に勤め、さらに淡江社を創設して、後進を指導した。そして、毎年三越で翰墨展を開催した。大正平和記念博覧会に協力した。さらに1921年(大正10年)、慶応義塾大学に書道会を設立して、指導に当たった。
淡江は1929年(昭和4年)に56歳でなくなった。淡江の書は1921年(大正10年)に書いた『岩田作兵衛翁記功碑』が残っている。この碑は、埼玉県川越市の喜多院の境内に建てられている。碑石は高さ十四尺(4.2メートルばかり)、 幅五尺三寸(1.6メートルばかり)の巨碑で、碑文は761字である。碑文の楷書は北魏の鄭道昭の書風による、いわゆる六朝風である。字形は整斉にして点画に筆力がある。篆額も淡江が書いている。篆書もみごとである。『記岩田作兵衛翁記功碑』によって、淡江の書は、伝統を継承した正統の書であり、巧妙にして優秀であることが示されている。
乾 玉江は父長渕に漢籍と書道とを学び、さらに長三洲及び三枝五江に書法を学んだ閨秀書家であった。1929年(昭和4年)に淡江がなくなると、玉江は『淡江合理的書法』を上梓して、淡江が提唱した書法を公表した。1932年(昭和7年)、長江はこの『淡江合理的書法』を映画化して、『習字法の科学的解説』(35ミリ、2巻)と題して発表した。これは文部省認定映画となった。
すぐれた書というのは自由に書いて変化に富む書である。自由に書くということは書法を無視して書くことではない。書法をよく学び、書法に拘束されることがなくなってから思いのままに書くことをいうのである。そして、自然に生じた変化がほんとうの変化である。わざと作り出した変化は変化とはいえない。それ故、まず正しい書法を正しく学ぶことが最もたいせつなことである。正しい書法を正しく習得すると、書を自由に書くことができるのである。
長江は父淡江に書法を学んだだけでなく、さらに足立疇邨に篆刻を学んだ。長江の書法は淡江の書法の継承である。楷書と草書とは字形はことなるが、書法の基本は楷書も草書も同じである。このことに関して、長江は長江が臨書した『智永真草千字文』の「あとがき」に、
由来、草書を学ぶには、その使転を把握することが肝要である。また、使転を理解するには、その文字の構成と点画を正確にとらえなければならない。学習の立場から言えば、真草、即ち、楷、草は、ひとつのものとして扱うべきで、個別のもののように扱ってはならないと考える。この楷、草の表現と内容については、すでに唐の孫過庭が、その『書譜』の中で論述している。 「真(楷書)は、点画を以て形質(すがた)となし、使転を情性(こころ)となす。草は、点画を以て情性となし、使転を形質となす。草、使転にそむけば、字をなすこと能わず、真は点画を虧くも、なお、文を記すべし。廻互、殊なりといえども、大体あい渉る。」 |
と書いている。そして、孫過庭の『書譜』の説を引いて、自説の正しいことを明らかにしている。
長江は、1933年(昭和8年)に中学校用『習字帖』三冊を、慶文堂書店から出した。これは文部省の検定に合格した習字教科書である。同年、法政大学書道会・慶応義塾大学書道会の講師になった。1935年(昭和10年)、法政大学高等商業部並びに文化学院の書道の講師になった。さらに1938年(昭和13年)には臨時東京第一陸軍病院職能教育部教官になり、1944年(昭和19年)までその職にあった。
1945年(昭和20年)、戦災によって蔵書、研究記録、著作そのほか、書に関する資料一切を灰塵に帰した。しかし、これに挫折することなく、この時から再生の第一歩を始めた。
まず1947年(昭和22年)に慶応義塾大学書道会を再開し、長江を中心にして再出発をした。
1962年(昭和37年)、長江は東洋大学文学部講師になり、書道史・書道科教育法の講義をするとともに実技指導もした。同年、教育映画『書法』2巻を製作して、4月に銀座のガスホールで発表試写会を催した。このようにして書道教育に最も尽力貢献した。そして、1964年(昭和39年)、長江及び淡江の次女須美(号玉江)は日本書道連盟参与を委託された。須美は1952年(昭和27年)に長江の指導監修によって『毛筆習字独習書』を主婦の友社から出し、母フミ玉江の号を用いて書道教授をしていた。
1964年(昭和39年4月)、銀座の竹川画廊で「乾長江翰墨展」が開かれた。これは長江の個展である。同年5月、新宿区中落合に長江教室を開き、門人の指導を再開した。
1965年(昭和40年4月)、「乾氏翰墨展」を竹川画廊で開いた。出品者は淡江の長女節・長江・淡江の次女須美(玉江)及び淡江の次男演生の4人である。淡江の二男二女の書の展覧会というのは珍しい。
1965年(昭和40年6月)、長江を中心とした門下の人たちによって淡江会が組織されていたが、淡江社と改称するとともに組織を整備拡充して、長江が理事長になり、新宿区中落合に事務所を置いた。これから淡江社の活動はいっそうさかんになった。
1966年(昭和41年5月)、銀座の三菱電機ギャラリーで「淡江社翰墨展」が開催された。これを第一回展として、その後引き続いて「淡江社翰墨展」が開かれた。この年、長江は慶応義塾大学書道会の推薦によって慶応義塾特薦塾員に推挙された。多年学生の指導に努力した功労を多とされたのである。
書家には漢字の書家とかなの書家とがいる。長江は漢字の書家である。漢字の書家はたいていの人が行書・草書を得意としている。そして、楷書を軽視している人が多い。篆書・隷書を書く人はまれである。しかし、楷書を巧妙に書くことができないと、行書・草書も巧妙に書くことはできない。篆書・隷書は現在用いられない。また、篆書・隷書の書法を学ぶ者はまれであるから、書家は楷書・行書・草書を書くことができれば、それでも一人前の書家になっている。しかし、書家として身を立てるほどの人は、篆書・隷書・楷書・行書・草書の五体が書けなければならない。五体の書を書くことができる人こそほんとうに一人前の書家である。
長江は楷書・行書・草書の三体を巧妙に書くことができるばかりでなく、篆書・隷書も巧妙に書くことができる。五体の書を書くことができるということは、書家として珍しい存在といわなければならない。
長江の作品は個展及び淡江社翰墨展で発表されている。さらに『乾長江作品撰』が刊行されているので、それによって、長江の書の全貌をうかがうことができる。
『乾長江作品撰』は1983年(昭和58年)に刊行された。長江の書の代表的な作品を選んでいる。選ばれている作品は、篆書・隷書・楷書・行書・草書の作品と篆刻の作品である。書の作品のうちに漢字と仮名とをまぜて書いた俳句の作品が二点まじっている。中国の能書には書とともに篆刻に長じた人が多い。長江も書家であるとともに優れた篆刻家である。また、『乾長江作品撰』には折本の『離騒』が添えられている。長江が屈原の『離騒』を楷書に行書をまぜて書いた巻子本である。これは長江の力作のひとつである。
長江の書は、書の長い伝統を継承した正統の書である。最近の書には変化を求めて奇矯になったのが多い。しかし、長江は流行を追わず、書の本質をよく理解して、書の正統を守っている。長江の書は淡江の書を継承して、それをさらに発展させているといってよい。
(注)
注①:本島人の医師の養成:總督府が医師不足の緊急対策として現地医師免許の資格試験制度に対するものであったという。
注②:杜逢時・洪以南・許均は当時台湾の三筆といわれた書家。
乾 長江 インタビュー/春名好重 『書道藝術』1986年11月号より転載
—お父様の淡江先生のことからお話をうかがいたいのですが、軍医として中国に渡られたのは、どんな経緯からなのでしょうか。
乾 はっきりとしたことはわかりませんが、丁度日清戦争の頃の話です。海軍の軍医部に奉職して旅順に行ったわけですが、父のおじが軍医でしたのでその関係があったかと思います。
向こうへ行きましたところ、大変言語の素性が良かったらしく、通訳官がかわいがって下さって、それが言語を早く熟達するもとになったようです。日清戦争が終わっても言語が堪能だったためでしょうか、中国に残って仕事をしていました。
—それから台湾に行かれたのですね。
乾 台湾が日本に帰属しまして、台湾で医者の養成をするために行ったようです。医学書を中国語に翻訳したり、教育に当たったりしてね。母は、結婚してずっと日本にいたのですが、この時台北に呼び寄せられまして、姉と僕は台北で生まれました。父の淡江という名は、台北を流れる淡水という名からとったのです。
—その後、お父様が医者としてではなく書家としての道を歩まれたのはどうしてとお考えですか。
乾 旅順にいる頃からあちこち歩き、書に関するものを関心を持って見ていたようですが、台北時代に当時台湾の三筆といわれた杜逢時、洪以南、許均と親交を深めたことが大きく影響したようです。それと、軍医として生活してきたこれまでの気持ち(実際にどんな仕事をしていたのかわかりませんが)を払拭したいということもあったのかもしれません。これは僕が想像するだけですけれどね。
—当時の台湾の書というのはやはり大陸の書の流れを汲んでいたわけですね。
乾 そうです。書にはいろいろな流れがあるが、書の系統として習うというのは唐までなんだね。宋になると少し崩れてくるし、明・清になると本道から少し逃げて、いわゆる職業的な書になってくる。
父はどっちかというと本道を流れたものが好きだったようです。書というのは、自分というものがそこに表現できなければ字ではないという考え方をしていましたね。極端に言えば、外側をどう立派に表現したって中がなければ字ではないということね。
—そのお考えが、1906年(明治39年)に帰国されて神田一ツ橋に創立した書法学院で実践されていくことになる。
乾 そう、書によって身を立てようと決めましてね。書法というのは字を書くことでなく、人との触れ合いによって物の見方を指導することだという考え方をしていました。
—教授法として用筆法に重きをおき、「蔵鋒の筆法」といったそうですが。
乾 その考え方は中国に古くからあることでしてね。どんな位置でも筆を乱さないということは辛い修行だがこれをやるとうんと上達します。筆を開くことも集めることも、つまり筆の開闔が自由にできるようになります。筆の性質をよく知って、筆の弾力を自由に使いこなせるということね。
これはね、やっていると勘でわかってくる。筆を筆として扱ってはだめで、何で書いてもその勘が働けば本当は書けるのです。でも教えるには「勘だよ」と言ったって困るわけで筆を用いて筆法を説明し、筆を起こすなどということも説明していくわけです。
スポーツでウルトラCというのがあるでしょう。ウルトラCをやるためにスポーツをするのではなく、たまさか変化をつけたものがウルトラCになるわけです。それと同じことで筆が完全に使えてから遊びがでても、それは面白いと思いますよ。
—技法が技法に終わってはだめだということですね。
乾 技法が心法になるほどにならなければならないということです。僕もなかなか心法までいかない。難しいことですよ。
それと、もともと筆は細い小さな竹(竹筒)に書くために自然発生したもので、非常にデリケートにできている。小さな竹筒に書いたものを大きく拡大して書いて、「これは木筒の筆勢です」なんていうのはちょっとおかしいのだな。筆法論というのはそうした問題まで含めていますのでね。
—筆法というのは基本になるわけですね。
乾 そうです。そうですが一つ心配するのは、筆法というのは説かなければならない。けれど、これが筆法ですよというものになってしまったら筆法でなく亜流になってしまう。筆法を理解させて、筆法などはいらないのだよということを理解させなければ筆法を指導したことにならない。
—それと、先生は楷草一元ということをおっしゃっていますが。
乾 これはなにも私が言ったのではなく、楷草一元という言葉ではないが同じことを唐の孫過庭が『書譜』の中で言っているのですよ。
私は弟子に筆法の指導をして楷書の勉強をさせますが、そのあと、もうすぐに草書の勉強をさせます。そして草書がある程度できれば私は隷書を書かせています。不思議なことに隷書が書けるようになると草書が変わってくるし、自然と楷書の形もできてくる。実に不思議ですよ。それで字というものはこういうものかとわかってくると、篆書も篆刻も、順序を追っていくとできてしまうのですよ。どうしてかということは、文字、書の歴史がわかればすぐに理解できます。総括的に物を見るということがやはり指導の本筋だと思うのです。
—先生は仮名もお書きになる?
乾 どうして書くのですかとよく聞かれるが、仮名というのは草書の用筆というもの、字の本質というものをつかまえて極端に省略したものですからね。
—戦後、書道教育に関する映画を作られましたね。どういうお考えからですか。
乾 僕はね、書家であって書家でない……。
慶応義塾の書道の顧問もしたし、妹を書家に育てたりもした。結局は、書とは民族の文化であって、その真髄はどうしても残したいという思いがあるのだね。それは父の願いでもあったわけですが。
映画を作る時には、本当に映画をよく見たし、撮影所にもいきました。文化映画なんてない時代でしたからね。
—現在の書写教育についてはどうお考えですか。
乾 国語の一つの技法としての形が書写教育になると思うのです。芸術的な教育ということになるとちょっと書写教育とは違ってしまう。そこに根本的な誤りがあり、混乱があると思いますね。
—わかりました。今日は長い時間、貴重な、また示唆に富んだお話をありがとうございました。
名作の旅 乾 長江『書道藝術』2003年5月号より転載
『 伝統の名家、望まれる遺墨展 』
乾 長江は五体全てに渡って卓抜した力量を誇った能筆である。その書法理論の深さと精緻な技術において、具眼の士からは常に惜しみない敬意を払われていた存在であった。一般的には楷書の名手として知られるが、例えば西村西洲・柳田泰雲・松本芳翠といった人々に比べると、ほとんど書壇と関わりを持たなかった。長江が今日、過小評価されている一因は、この徹底したストイックさにあったような気がする。
長江の父淡江は軍医として著名。書家としても一家を成した名士で、戦前の紳士名鑑の常連であった。人間的にも自己に厳しい倫理の人であったという。この気質は息子長江に、より純化されて発現する。慶應大学・法政大学始め、長江の“書法講義”は本物の伝説である。名利を求めず書法のことわりを追求することが、長江の人生であった。その潔さにこころを打たれる。「秋風之辞」の美しい文字の容姿……贅言は不要だ。
文/松田十蘭
2006年(平成18年2月)生誕百年記念「乾 長江遺墨展」に寄せて
『 卓越した書法大家、乾長江先生を偲んで 』 関乃平(日本語訳) 原文=>(PDF)
日本の書法の大家であられる乾長江先生のご高名はかねがね伺っていた。近来、乾長江先生のご息女の塚本尋女史より、数冊の乾先生の作品選集をご恵贈いただき、私は乾先生の書法芸術を全面的に鑑賞する機会を得た。この名家の筆墨の世界について大いに理解を深めることができたのである。 名声の高い漢字書家として、乾長江先生は、篆書から隷書、楷書から行草まで、いずれにも従容として筆を揮われている。このように全方位にわたっての書道技法を会得している人は、今日の書法界には実に少数である。 書法をそれなりに理解している人なら誰でもわかることだが、楷書はもっとも修練の度合いが問われるものである。乾先生の楷書作品「大学全文」を鑑賞してみよう。二千字余りの全文が、豊かに軽快な勢いで流れるように、しかも疎密の妙趣に充ちて、縦138cm幅65cmの空間に纏められている。一字一字いずれも形は優美で力強い。風格は端正重厚穏健でありながら俊逸瀟灑を保っている。加えて、全幅を通して気迫は巍然として一つになり、大変大きな芸術的魅力を感じさせるものだ。この作品からだけでも全貌を推し量れるのだが、乾先生が長年、唐代あるいは唐代以前にまで遡って研鑽を積まれ、殊に孫過庭の「書譜」の研鑽にも不屈の努力をなさったことがわかる。乾先生が堅実なる正統を受継ぐという基礎の上に、古今の名帖の本質を理解し、著名な書法家の父乾淡江の指導を受けて、この様に完璧に自らの芸術的創造性を発揮されたことに感服するばかりである。そして同時に、多くの名家が語っている「芸を治むるに捷徑なし」との道理を思い起こすのである。 乾先生の作品は、大字は氣勢恢宏、小字は氣韻生動である。実は、技法は心の技なのだ。乾先生は倦むことなく探求されるなかで、新意を体得したといえる。筆・手・心が一体となり、墨は情から入り、筆は性のままに出る。筆端は行雲流水の如く、想いを朗々と謳いあげている。人材が輩出している日本の書法界であるが、ここには独自の境地が切り開かれている。 乾先生の作品をずっと見ていくと、楚辞や唐宋の詩文などがかなりの比率を占めている。屈原の「離騒」、李白や蘇東坡の詩句、文物である石鼓文の臨摸に至るまである。しかも用筆は蔵鋒で內斂は含蓄あり、その深い古文の修養が窺われる。一生をかけて書の探求の旅を続け、非凡なる悟性、群書を博覧し、高潔なる人格の魅力を形作って、終には日本の学者型の書法家としての名をなすに至った。 乾先生は東洋の視覚芸術の一つである篆刻においても独自の境地に達し、先人のやり方に拘らず、時流に阿ることなく、俗に陥らず、かといって自分の殻に閉じこもることもなく、「正平」と「奇異」の間の間合いを把握されている。先生の方寸の世界の中に我々は 「欹側」、「正斜」、「疏密」、「開合」ならびに「分紅布白」の変化に富んだあじわいを感じ取ることができるのである。 書法芸術は日本の民族文化の真髄の一つということができる。乾長江先生と言うこの卓越した書法の大家を偲ぶと共に、私どもは2006年3月に銀座で盛大に開催される「乾長江先生遺墨展」が必ずやすばらしい成功を収めると確信するものである。2005年歲末 東京にて 関乃平:1945年、中国における水墨画と銅板画の先駆者である関広志の長男として、北京に生まれた。1983年来日。現在は東洋美術学校中国水墨画主任教授(東京)、中国国立中央美術学院客員教授(北京)、中国国立中国美術学院客員教授(杭州)、中国美術家協会中国画芸術委員会駐日本代表、国際水墨画交流協会会長、中国華僑連合会海外顧問、日本国際文学芸術家連盟副会長などを務め、日本と中国で画業と教育活動、執筆に多忙な日々を送っている。(プロフィールは2005年当時) URL:http://www.kan-guannaiping.com/ |
『 腹中に詩書ありて、落筆や、すなわち典雅なり/日本の乾長江の書作品を読む 』 任道斌(中国美術学院国際教育学院院長)(日本語訳) 原文=>(PDF)
漢字の書法は、数千年の発展を経て、意味と形象が結びついたものとして世に広く知られている。その線による造形と内容字義の完璧な結合は、「書画同源」「書を心の跡となす」という境地にまで到達している。したがって、漢字の書法芸術は早くも中国の漢代には、国のうちに留まることなく、海を越えて伝わり、東洋芸術の象徴ともなって、文化芸術を愛する各国の人士に愛好されてきた。中国と一衣帯水の近隣として、日本にもおいても多くの教養ある人々が中国の漢字書法芸術を深く愛好し、各書体を研究習得し、兼ねて篆刻にも及んで、終生を通じて探求するに至っても、それを喜びとして倦むことがなかった。それはもとより中日の文字が同じであるということによるのであるが、一方では、大和民族が学ぶことに長けた精神を持っていることにもよるのだと、私はかねがね思っていた。近頃、日本の乾長江先生(1906~1994)の漢字書法芸術作品を拝見し、私のこの考えが間違っていないと再確認した。 乾長江先生は若き日に日本の法政大学を卒業し、以後は書道教育に携わられた。数十年一日の如く、書をもって喜びとされ、終生それは変わることがなかった。 先生の漢字書法は、歳を重ねるにつれていよいよ凄みを増しているが、しかも書巻の気を強く感じさせるものである。遺作を通して拝見し、私が感じたのは、その書法芸術は、胸の内の詩・書がおのずから溢れ出たものであり、胸中に厚く積まれた学識が筆を通して軽やかに表出されていくという、普通の書家にはとうてい及ばない境地に達しているということである。 なによりもまず、乾先生は楷書に長けている。重厚優雅にして平淡天真、筆画の構成は整然と均整がとれ、しかも霊動秀逸の気風を失っていない。端正で質朴なる形をもって、漢字のもつ原義を伝えていて、きわめて健康で美しい。そしてまさにこの基礎の上に、その行書・草書・隷書・篆書の諸体は、いずれもぴたりと落ち着くべきところに展開されている。草書は逸であって散にはならず、行書は暢びやかにして軟ならず、隷書は重厚にして瀟洒、篆書は古風質朴ながら清新である。あたかも、健康で生気に満ち溢れた美男美女の群が、思うままにさまざまな舞踏を繰り広げているようである。興奮あり、含蓄あり、軽快あり、沈静あり、奔放あり、婉曲あり。姿態は一つとして同じでないのだが、それは病んだ男や醜い女などとはまったく無縁であり、そのために、動も静も伸も縮も眉宇の間にはすべてみな健康美がみなぎっている。これこそが、乾先生が楷書の修練においてが非凡なる練磨をされた結果である。 次に、乾先生の書かれた作品は、先秦散文でも秦漢の駢儷体でも、また唐詩宋詞でも明清の格言でもいずれもが形と心を兼ねそなた風貌を呈しており、たとえば「臨石鼓文」では質朴のなかに雄勁なる勢いがあり、これによって今日の人々は周朝金文の刻画の美を思い起こすことができるのだ。また、楷書の「老子第五十三章」では、筆勢にはきびきびとした張りがあり、垢抜けて整然としていて、伸びやかな広がりがあって、質朴で自然な感が際立っている。さらに、行書で書かれた李白の「日照香炉生紫煙」詩では、筆を下すも収めるも実に自在で、濃淡に趣があり、繁簡は混淆して、起伏は奔放で、その上、飄然と仙境に入らんばかりの感すらある。これは乾先生が漢文の文辞の内包するところを深く理解されていたことの結果であり、だからこそ、想いが伝わり、筆に心が宿っているのである。 漢字書法は形をもって心を伝える芸術である。こうした意味から、乾先生の書法芸術は、篆刻作品をも含めてまさしく成功しているといえる。日本の友人によって、かくのごとき境地にまで達せられ、漢文の精神を出色の領域にまで会得されているということは、まことにもって得がたいことである。これは乾先生が畢生の精力を注がれ、書を喜びとされた結果であり、また先生の刻苦勉励された精神の反映であり、さらには先生が中国文化を熱愛された証なのである。中国芸術史を専攻する一学者として、私は先生に崇高なる敬意を表するものであり、よってこの一文を撰し、いささかの感想を述べさせていただいた。 2005年仲冬 |
乾 長江 年譜
1906年 (明治39年) | 3月24日、台湾台北に生まれる。丈夫と命名される。父は乾角太郎(号淡江)。母フミ(号玉江)。 |
父淡江(旧姓大村)は軍医として台湾に赴任し、現地の医師養成のための教育に従事していた。この間、もともと書に心を寄せていた淡江は当時台湾の三筆といわれた杜逢時・洪以南・許均などと好誼を得、文墨の世界に深く浸ることになった。やがて帰国するが、淡江は翻然として医業を捨て、神田一ツ橋に書法学院を設立し、書法教授としての後半生を歩む。 | |
母玉江も漢籍と書法に精通し、父長淵のほか、長三洲や三枝五江に師事 | |
1907年(明治40年) 1歳 | 家族で帰国 |
金華小学校に入学 のちに青山小学校に転校・卒業。名教中学校卒業後、法政大学に入学 | |
1929年(昭和4年) 23歳 | 父淡江逝去(享年56歳) |
1930年(昭和5年) 24歳 | 3月、法政大学経済学部卒業、家業の書塾を継ぎ、書法を教授する。長江と号す |
書法は、父淡江、母玉江の指導を受け、篆刻は足達畴邨の指導を受ける | |
このころの研究テーマとしては「書態に現れた心象解剖を目的とするグラフォロジー」 | |
1932年(昭和7年) 26歳 | 慶應義塾大学書道会講師、法政大学書道会講師となる(1943年(昭和18年)まで) |
7月、淡江書法による教育映画『習字法の科学的解説』(35ミリ,2巻、文部省認定)を製作発表。母玉江著『淡江合理的書法』(昭和5年)の映画化である。同年8月に文部省認定映画に指定される。 | |
上記映画の内容は、書道文化史と書法を解説したもの。精巧キネマ商会撮影、慶文堂書店出版。発表試写会は、7月25日、神田教育会館にて。8月13日、文部省認定映画に指定され、文部大臣鳩山一郎、教育総監陸軍大将渡辺錠太郎、両氏の推賞題字を受ける | |
12月、「中等学校用習字帖」上、中、下三巻、並びに「仝習字科教授資料」を編著 | |
1933年(昭和8年) 27歳 | 上記著作を刊行。中学校国語漢文科教科書として文部省認定となる。慶文堂書店。 |
姉の節(淡江長女)は、淡江の書法を引き継ぎ、私立恵泉女学園で書道教育にあたる(1971年(昭和46年)まで) | |
1935年 (昭和10年)29歳 | 文化学院書道講師となる(1941年(昭和16年)まで) |
1936年 (昭和11年)30歳 | 法政大学高等商業部書道講師となる(1939年(昭和14年)まで) |
1938年 (昭和13年)32歳 | 臨時東京第一陸軍病院にて職能教育指導教官として傷病兵の訓練科目「書道」を担当 (1944年(昭和19年)まで) |
この間、上記病院の職能教育部の委嘱により、数回に亘り研究報告をする。「書道教育に於ける機能障害者指導とその実際」「書道教育に於ける戦傷者指導とその実際」 | |
尚、陸軍病院、文化学院、慶應、法政等にて書論、実技を指導する傍ら、「書の心理的実験記録」(グラフォロジー)についての研究をすすめる。後に、戦災により資料を焼失。戦後も実験の再開を希求し続けた | |
1943年 (昭和18年)37歳 | 南洋興発株式会社東京事務所勤務 (1945年(昭和20年)まで) |
1945年(昭和20年)39歳 | 南洋興発関係戦後処理業務 (1947年(昭和22年)まで) |
1947年 (昭和22年)41歳 | 株式会社後楽園スタヂアム勤務 (1959年(昭和34年)まで) |
日本基督教団原町田教会で受洗 | |
9月、母玉江逝去(享年72歳) | |
慶應義塾大学書道会の再開、長江を中心に復員塾生により再発足する。講師となり、のちに顧問となる | |
1948年 (昭和23年)42歳 | 星野たみと結婚 |
1949年 (昭和24年)43歳 | 長男昭志誕生 |
1951年 (昭和26年)45歳 | 長女尋誕生 |
1952年(昭和27年)46歳 | 長江の指導で、妹の須美は文京区小日向にて書道教授を開始、玉江の号を用いる |
1959年(昭和34年)53歳 | 株式会社フタバヤラケット製作所常務取締役 1963年(昭和38年)まで |
1962年(昭和37年)56歳 | 東洋大学文学部講師として書道実技・書道史・書道教育法を担当 |
4月、教育映画『書法』2巻(16ミリ音画)を製作発表 (銀座ガスホールにて発表試写会) | |
上記映画の内容は、腕の合理的な動き、筆の物理的性質から運筆、筆触の実態を詳述し、書法の要諦を解説したもの。撮影は日本ドキュメントフィルム。発表試写会は銀座ガスホールにて4月18日開催 | |
淡江社、再発足。(淡江社は、大正初期、乾淡江先生により創設された。淡江先生没後は、門下の会・淡江会として継続された。) | |
1964年(昭和39年)58歳 | 4月、乾長江翰墨展(個展) 於銀座竹川画廊 発表作品32点 クリックするとご覧になれます。 ▶︎長江展に寄せて/淡江會 ▶︎長江翰墨展に寄せて |
日本書道連盟参与の委嘱を受ける | |
5月、新宿区中落合に長江教室を設け、門下の指導を再開 クリックするとご覧になれます。▶︎淡江会有志による淡江書法の履歴 | |
1965年(昭和40年)59歳 | 5月、乾氏翰墨展 於銀座竹川画廊 発表作品23点 |
6月、淡江会を淡江社と改称。理事長となり、事務所を新宿区中落合に置く。(父淡江没後は、長江を中心として門下の人々によって淡江会が組織されていたが、淡江社と改称するとともに組織を整備拡充して、長江が理事長になり、新宿区中落合に事務所を置いた。これから、淡江社の活動はいっそうさかんになった。) クリックするとご覧になれます。▶︎淡江社設立の趣意書 | |
1966年(昭和41年)60歳 | 5月、第1回淡江社翰墨展 於銀座三菱電機ギャラリー 発表作品7点 |
慶應書道会OB有志の推薦により、父母に続いての永年に亘る学生指導の功績を多とされ慶應義塾大学特薦塾員に推挙される | |
1967年(昭和42年)61歳 | 5月、第2回淡江社翰墨展 於銀座三菱電機ギャラリー 発表作品6点 |
1968年(昭和43年)62歳 | 5月、第3回淡江社翰墨展 於銀座東芝展示フロア 発表作品9点 |
1969年(昭和44年)63歳 | 6月、第4回淡江社翰墨展 於銀座東芝展示フロア 発表作品8点 |
10月、乾長江翰墨展(個展) 於銀座東芝展示フロア 発表作品33点 | |
1970年(昭和45年)64歳 | 12月、第5回淡江社翰墨展 於銀座東芝展示フロア 発表作品4点 |
1972年(昭和47年)66歳 | 1月、第6回淡江社翰墨展 於銀座東芝展示フロア 発表作品4点 |
1973年(昭和48年)67歳 | 6月、第7回淡江社翰墨展 於新橋 東タイ画廊 発表作品4点 |
全日本書道連盟会員となる | |
1974年(昭和49年) 68歳 | 7月、第8回淡江社翰墨展 於東芝銀座ショールーム、ギャラリー 発表作品3点 |
1975年(昭和50年) 69歳 | 10月、第9回淡江社翰墨展 於銀座十字屋画廊 発表作品2点 |
1976年(昭和51年) 70歳 | 11月、第10回淡江社翰墨展 於神田東京YMCA101号室 発表作品4点 |
『基本筆法』刊行。淡江社書法研究所発行 | |
1978年(昭和53年)72歳 | 3月、『乾淡江書 岩田作兵衛翁記功碑』出版(長江拓) |
4月、乾淡江先生50年祭記念・第11回淡江社翰墨展 於新宿 東京金属健保会館 発表作品2点 | |
1979年(昭和54年)73歳 | 11月、第12回淡江社翰墨展 於新宿文化センター 発表作品2点 |
1980年(昭和55年)74歳 | 10月、乾長江小品展 於百芝山房(新宿中落合自宅) 展示作品57点 |
1981年(昭和56年)75歳 | 6月、第13回淡江社翰墨展 於新宿 東京金属健保会館 発表作品4点 |
1982年(昭和57年)76歳 | 1月より9月までの間、五回にわたり「入木抄」の公開講座を新宿文化センターその他で開催 |
1983年(昭和58年)77歳 | 6月、第14回淡江社翰墨展 於新宿文化センター 発表作品2点 |
11月より翌年7月までの間、四回「書法のルーツを求めて」の公開講座を新宿文化センターにて開催 | |
『乾長江作品撰』刊行 | |
『長江千字文 草篇』刊行。淡江社書法研究所出版 | |
1985年(昭和60年)79歳 | 10月、乾長江傘寿記念・第15回淡江社翰墨展 於新宿 朝日生命ギャラリー 発表作品4点 |
1988年(昭和63年)82歳 | 5月、第16回淡江社翰墨展 於新宿 朝日生命ギャラリー 発表作品7点 |
1990年(平成2年)84歳 | 5月、第17回淡江社翰墨展 於新宿 朝日生命ギャラリー 発表作品5点 |
11月、淡江社 小品18人展 於有楽町朝日ギャラリーB室 賛助作品出品 | |
1991年(平成3年)85歳 | 5月、乾長江個展 於 ギャラリー新宿高野 展示作品57点 |
第18回淡江社翰墨展 於有楽町 朝日ギャラリー 発表作品1点 | |
1993年(平成5年)87歳 | 11月、乾長江米寿記念・第19回淡江社翰墨展 於 麻布工芸美術館 発表作品2点 |
『王維九品』刊行。二玄社出版。 | |
『乾長江臨石鼓文』刊行。百芝山房発行 | |
1994年(平成6年)88歳 | 1月、乾長江書作展 於 山梨県立美術館。 第二会場は白州町・浅川画廊。 展示作品67点 |
7月18日午前9時45分 永眠 |