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 趣意書

 書道は東洋独特の文化で、国民が生活の中に受け継いでいる伝統であります。私どもの暮らしの中で<書>は、特別な扱いを受けて居り、これを習うことにも民族特有の精神的なものを感じて居ります。

 <書>は、このような芸術的な性格と教養的な性格をもち、また、よく人の性格を写し出し、時代時代の風をも伝えるところから芸術の中の特異な存在となって居ります。しかも、<書>には特に気運の生動が求められ、この点では、音楽、能、演劇などの時間的芸術とも共通するものを持って居ります。

 いま、書道は時流にのって、一見盛んになって居りますが、大方は修練の乏しい、基礎の浅い作品が多く、<書>の本質からは程遠いものの様であります。また、一般に鑑識がないため、ただ、旧態の臨模となり、又、単なるデザイン風の表面の糊塗に堕し、識者を慨嘆せしめているのであります。

 今日の物を主体として考える文明のいくところが、人間の生命を疎んじ、功利実用のみに走る結果、凡ゆるところに様々な末期的症状を起こしていることは悲しむべき事実であります。

 ここに人間の問題がとりあげられ、道義の高揚が呼ばれるのでありましょう。いまや、問題は、物を造る作業の単なる技術の訓練にさえ、基礎の伴はぬ教育の欠陥が露われて居ります。これはわが国だけの現象でなく、世界の文明国家群の共通の悩みであるところに根深いものを感じます。人類社会が醸し出す様々な問題は、この本質を忘れた人間の狼狽の姿と見ることが出来るのではないでしょうか。

 一方、真、善、美の在り方を古典に求める「古典への回想」が起こりつつあることは蓋し当然のことでありましょう。私どもは、東洋の書の立場からこの問題に取り組まうとして居ります。

 大正期に、先考淡江先生は、“書を書くということは日日の己の字に、己の姿を見る行”として、古典の心と筆の理を解かれ、書芸の在り方を“筆と己”に求められたことは書道の本義に徹した心境であり、斯道に対する達見であったと信じます。

 書は、芸術である前に、まず正確な書でなければならない。正確な書は厳正な筆法によって得られる。筆法とは、単なる点、画の形でも、字形の結体でもありません。それは、心の据え方であり、腕法の理そのものの習練であり、書道の座に坐る坐り方であります。腕で、心で、全身全霊で筆法の要蹄をつかむことなのであります。こうして、初めて、己の体はつくられ、その習練は、やがて己の風をつくってゆくのであります。

 この体と風とは、書法の要諦を体得して後の表現で、ただ形を模し、姿だけを真似ても、容易に得られるものではありません。
書道の学習は、まず正しい書法の把握が一義であり、更には、多くの古典の風に接して書に対する正眼を養い、己の体と風の完成につとめることこそ肝要でありましょう。

 茲に、淡江先生の流れをくみ、その志を同じうする者が、あつまって淡江社を結成し、古典が示す書法の本義を解明し、書芸の在り方を糺そうとするものであります。そして、現代の書芸をより高い次元にまでたかめ、一方、巷間、「手すぢ」などといわれ、一種の天分の様に思はれている蒙をただし、書道を国民一般の常識にまでひろめ、日本文化の正常な発展に寄与したい念願であります。

昭和40年6月
淡江社

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