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 厳格にして究極の書法 乾 長江 書の世界

乾長江
略歴
●明治39年生まれ
●法政大学経済学部卒。慶応義塾特薦塾員。
●慶應義塾・法政大学書道会・法政大学
高等商業部・文化学院・臨時東京第一陸軍
病院・東洋大学文学部等に於て書道の指導。
●現在、淡江社理事、淡江社書法研究所の指
導に出る。
●著書 基本筆法、草千字問、その他。


(『書道藝術』1986年11月号)
乾長江の書 春名好重
   乾 長江は、明治39年に淡江(本名角太郎)を父とし、玉江(本名フミ)を母として生まれた。長じて法政大学経済学部を卒業したが、父淡江も母玉江も能書としてすぐれた人であったから、父母の感化影響によって、若年のころより書法を学ぶことに最も努力した。そして、能書として一家を成し、父淡江が創設した淡江社を再建して、後進の指導に尽力した。

 乾 淡江(旧姓大村)は明治7年に山梨県東山梨郡山村で生まれた。医学を済世学舎に学び、明治27年、旅順の海軍々医部に配属された。爾来十年余中國に留まり公務の傍ら古碑や書学の研究をしていた。日清講和後、淡江は、フミ玉江を台北に呼んだ。この頃マカイ神父のすすめで本当(台湾)人の医師を養成するため日本の医師を中国語に翻訳しつつその教育に当たっていた。

 乾淡江(旧姓大村)は明治7年に山梨県東山梨郡山村で生まれた。医学を済世学舎に学び、明治27年、旅順の海軍々医部に配属された。爾来十年余中國に留まり公務の傍ら古碑や書学の研究をしていた。日清講和後、淡江は、フミ玉江を台北に呼んだ。この頃マカイ神父のすすめで本当(台湾)人の医師を養成するため日本の医師を中国語に翻訳しつつその教育に当たっていた。
  また一方、淡江は書家の杜逢時、洪以南、許均らとの交友をもち書に対する基本的な問題を検討する機会を得た。此の頃から淡江と号した。

 明治39年に帰国して、東京の神田一ツ橋に書法学院を設立し、書法教授を始めた。
 淡江の教授法は用筆法を最も重視した。そして、書法学習の第一義は筆の構造を理解し、筆毛の弾力性を利用することにあると考えた。すなわち、筆をむりに用いないようにすることにあると考えたのである。筆の鋒は獣毛で作られている。獣毛には弾力がある。弾力を利用して書くと、自然に書くことができる。そして、むりが無いから、じょうずに書くことができるのである。それ故、正しい用筆法を正しく習得することは、書法の学習において最も大切なことである。淡江は淡江の用筆法を「蔵法の筆法」といった。
 
 大正の初め高詢社翰墨会・電気倶楽部書道会等の講師として書の普及指導に勤め、さらに淡江社を創設して、後進を指導した。そして、毎年三越で翰墨展を開催した。大正平和記念博覧会に協力した。さらに大正10年、慶応義塾大学に書道会を設立して、指導に当たった。

 淡江は昭和4年に56歳でなくなった。淡江の書は大正10年に書いた『岩田作兵衛翁記功碑』が残っている。この碑は、埼玉県川越市の喜多院の境内に建てられている。碑石は高さ十四尺(4.2メートルばかり)、 幅五尺三寸(1.6メートルばかり)の巨碑で、碑文は761字である碑文の楷書は北魏の鄭道昭の書風による、いわゆる六朝風である。字形は整斉にして点画が筆力がある。篆額も淡江が書いている。篆書もみごとである。『記岩田作兵衛翁記功碑』によって、淡江の書は、伝統を継承した正統の書であり、巧妙にして優秀であることが示されている。

 玉江女史は父長渕に漢籍と書道とを学び、さらに長三洲及び三枝五江に書法を学んだ。それ故、昭和4年に淡江がなくなると、玉江は『淡江合理的書法』を上梓して、淡江が提唱した書法を好評した。昭和7年、長江は『淡江合理的書法』を映画化して、『習字の科学的解説』と題して発表した。これは文部省認定映画となった。

 すぐれた書というのは自由に書いて変化に富む書である。自由に書くということは書法を無視して書くことではない。書法をよく学び、処方に拘束されることがなくなってから思いのままに書くことをいうのである。そして、し禅に生じた変化がほんとうの変化である。わざと作り出した変化は変化とはいえない。それ故、まず正しい書法を正しく学ぶことが最もたいせつなことである。正しい書法を正しく習得すると、書を自由に書くことができるのである。

 長江は父淡江に書法を学んだだけでなく、さらに足立疇邨に篆刻を学んだ。長江の書法は淡江の書法の継承である。楷書と叢書とは字形はことなるが、書法の基本は楷書も草書も同じである。このとこに関して、長江は長江が臨書した『智永真草千字文』の「あとがき」に、

 由来、草書を学ぶには、その使転を把握することが肝要である。また、使転を理解するには、その文字の構成と点画を正確にとらえなければならない。学習のたちがから言えば、真草、即ち、楷、草は、ひとつのものとして扱うべきで、個別のもののように扱ってはならないと考える。この楷、草の表現と内容については、すでに唐の孫過庭が、その「書譜」の中で論述している。

 「真(楷書)は、点画を以て形質(すがた)となし、使転を惰性(こころ)となす。草は、点画を以て惰性となし、使転を形質となす。草、使転にそむけば、字をなすこと能わず、真は点画を ( ) くも、なお、文を記すべし。廻互、 ( こと ) なるといえども、大体あい ( わた ) る。

と書いている。そして、孫過庭の『書譜』の説を引いて、時節の正しいことを明らかにしている。

 長江は、昭和8年に中学校用『習字帖』三冊を、慶文堂書店から出した。これは文部省の検定に合格した習字教科書である。同年、法政大学書道会・慶応義塾大学書道会の講師になった。昭和10年、法政大学高等商業部並びに文化学院の書道の講師になった。さらに昭和13年には臨時東京第一陸軍病院職能教育部教官になり、昭和19年までその職にあった。

 昭和20年、戦災によって蔵書、そのほか、書に関する資料一切を烏有に帰した。しかし、これに挫折することなく、この時から再生の第一歩を始めた。

 まず昭和22年に慶応義塾大学書道会を再開し、長江を中心にして再出発をした。

 昭和37年、長江は東洋大学文学部講師になり、書道史・書道科教育法の講義をするとともに実技指導もした。同年、長江は教育映画『書法』2巻を製作して、4月に減さのガスホールで発表試写会を催した。このようにして書道教育に最も尽力貢献した。そして、昭和39年、長江及び淡江の次女須美(号玉江)は日本書道連盟参与を委託さsれた。須美は昭和27年に長江の指導監修によって『毛筆習字独習書』を主婦の友社から出した。母フミの玉江の号を用いて書道教授をしていた。
 昭和39年4月、銀座の竹川画廊で「長江翰墨展」が開かれた。これは長江の個展である。同年5月、新宿区中落合に長江教室を開き、門人の指導を再開した。

 昭和40年4月、乾氏翰墨展を竹川画廊で開いた。出品者は淡江の長女節・長江・淡江の次女須美(玉江)及び淡江の次男演生の4人である。淡江の二男二女の書の展覧会というのは珍しい。

 昭和40年6月、長江を中心とした門下の人たちによって淡江会が組織されていたが、淡江社と改称するとともに組織を整備拡充して、長江が理事長になり、新宿区中落合に事務所を置いた。これから淡江社の活動はいっそうさかんになった。

 昭和41年5月、銀座の三菱電機ギャラリーで淡江社翰墨展が開催された。これを第一回展として、その後引き続いて淡江社翰墨展が開かれた。この年、長江は慶応義塾大学書道会の推薦によって慶応義塾特薦塾員に推挙された。多年学生の指導に努力した功労を多とされたのである。

 書家には漢字の書家とかなの書家とがいる。長江は漢字の書家である。漢字の書家はたいていの人が行書・草書を得意としている。そして、楷書を軽視している人が多い。篆書・隷書を書く人はまれである。しかし、楷書を巧妙に書くことができないと、行書・草書も巧妙に書くことはできない。篆書・隷書は現在用いられない。また、篆書・隷書の書法を学ぶ者はまれであるから、書家は楷書・行書・草書を書くことができれば、それでも一人前の書家になっている。しかし、書家として身を立てるほどの人は、篆書・隷書・楷書・行書・草書の五体が書けなければならない。五体の書を書くことができる人こそほんとうに一人前の書家である。

 長江は楷書・行書・草書の三体を巧妙に書くことができるばかりでなく、篆書・隷書も巧妙に書くことができる。五体の書を書くことができるということは、書家として珍しい存在といわなければならない。

長江の作品は個展及び淡江社翰墨展で発表されている。さらに『乾長江作品撰』が刊行されているので、それによって、長江の書の全貌をうかがうことができる。

長江の作品は個展及び淡江社翰墨展で発表されている。さらに『乾長江作品撰』が刊行されているので、それによって、長江の書の全貌をうかがうことができる。

『乾長江作品撰』は昭和58年に刊行された。長江の書の代表的な作品を選んでいる。選ばれている作品は、篆書・隷書・楷書・行書・草書の作品と篆刻の作品である。書の作品のうちに漢字と仮名とをまぜて書いた俳句の作品が二点まじっている。中国の能書には書とともに篆刻に長じた人が多い。長江も書家であるとともに立派な篆刻家である。『乾長江作品撰』には折本の『離騒』が添えられている。長江が屈原の『離騒』を楷書に行書をまぜて書いた巻子本である。これは長江の力作のひとつである。

 長江の書は、書の長い伝統を継承した政党の書である。最近の書には変化を求めて寄矯になったのが多い。しかし、長江は流行を追わず、書の本質をよく理解して、書の正統を守っている。長江の書は淡江の書を継承して、それをさらに発展させているといってよい。

(注)
1、本島人の医師の養成 總督府が医師不足の緊急対策として現地医師免許の資格試験制度に対するものであったという。
2、杜逢時・洪以南・許均は当時台湾の三筆といわれた書家。

 




 乾長江インタビュー

—お父様の淡江先生のことからお話をうかがいたいのですが、軍医として中国に渡られたのは、どんな経緯からなのでしょうか
 はっきりとしたことはわかりませんが、丁度日清戦争の頃の話です。海軍の軍医部に奉職して旅順に行ったわけですが、父のおじが軍医でしたのでその関係があったかと思います。
 向こうへ行きましたところ、大変言語の素性が良かったらしく、通訳官がかわいがって下さって、それが言語を早く熟達するもとになったようです。日清戦争が終わっても言語が堪能だったためでしょうか、中国に残って仕事をしていました。

—それから台湾に行かれたのですね。
 台湾が日本に帰属しまして、台湾で医者の養成をするために行ったようです。医学書を中国語に翻訳したり、教育に当たったりしてね。母は、結婚してずっと日本にいたのですが、この時台北に呼び寄せられまして、姉と僕は台北で生まれました。父の淡江という名は、台北を流れる淡水という名からとったのです。

—その後、お父様が医者としてではなく書家としての道を歩まれたのはどうしてとお考えですか。
 旅順にいる頃からあちこち歩き、書に関するものを関心を持って見ていたようですが、台北時代に当時台湾の三筆といわれた杜逢時、洪以南、許均と親交を深めたことが大きく影響したようです。それと、軍医として生活してきたこれまでの気持ち??実際にどんな仕事をしていたのかわかりませんが??を払拭したいということもあったのかもしれません。これは僕が想像するだけですけれどね。

—当時の台湾の書というのはやはり大陸の書の流れを汲んでいたわけですね。
 そうです。書にはいろいろな流れがあるが、書の系統として習うというのは唐までなんだね。宋になると少し崩れてくるし、明・清になると本道から少し逃げて、いわゆる職業的な書になってくる。
 父はどっちかというと本道を流れたものが好きだったようです。書というのは、自分というものがそこに表現できなければ字ではないという考え方をしていましたね。極端に言えば、外側をどう立派に表現したって中がなければ字ではないということね。

—そのお考えが、明治39年に帰国されて神田一ツ端(橋?)に創立した書法学院で実践されていくことになる。
 そう、書によって身を立てようと決めましてね。書法というのは字を書くことでなく、人との触れ合いによって物の見方を指導することだという考え方をしていました。

—教授法として用筆法に重きをおき、「蔵書の筆法」といったそうですが。
 その考え方は中国に古くからあることでしてね。どんな位置でも筆を乱さないということは辛い修行だがこれをやるとうんと上達します。筆を開くことも集めることも、つまり筆の開闔が自由にできるようになります。筆の性質をよく知って、筆の弾力を自由に使いこなせるということね。
 これはね、やっていると感でわかってくる。筆を筆として扱ってはだめで、何で書いてもその感が働けば本当は書けるのです。でも教えるには「感だよ」と言ったって困るわけで筆を用いて筆法を説明し、筆を起こすなどということも説明していくわけです。
 スポーツでウルトラCというのがあるでしょう。ウルトラCをやるためにスポーツをするのではなく、偶さが変化をつけたものがウルトラCになるわけです。それと同じことで筆が完全に使えてから遊びがでても、それは面白いと思いますよ。


—技法が技法に終わってはだめだということですね。
 技法が心法になるほどにならなければならないということです。僕もなかなか心法までいかない。難しいことですよ。
 それと、もともと筆は細い小さな竹(竹筒)に書くために自然発生したもので、非常にデリケートにできている。小さな竹筒に書いたものを大きく拡大して書いて、「これは木筒の筆勢です」なんていうのはちょっとおかしいのだな。筆法論というのはそうした問題まで含めていますのでね。

—筆法というのは基本になるわけですね。
 そうです。そうですが一つ心配するのは、筆法というのは説かなければならない。けれど、これが筆法ですよというものになってしまったら筆法でなく亜流になってしまう。筆法を理解させて、筆法などはいらないのだよということを理解させなければ筆法を指導したことにならない。

—それと、先生は楷草一元ということをおっしゃっていますが。
 これはなにも私が言ったのではなく、楷草一元という言葉ではないが同じことを唐の孫過庭が「書譜」の中で言っているのですよ。
 私は弟子に筆法の指導をして楷書の勉強をさせますが、そのあと、もうすぐに草書の勉強をさせます。そして草書がある程度できれば私は隷書を書かせています。不思議なことに隷書が書けるようになると草書が変わってくるし、自然と楷書の形もできてくる。実に不思議ですよ。それで字というものはこういうものかとわかってくると、篆書も篆刻も書ける、順序を追っていくとできてしまうのですよ。どうしてかということは、文字、書の歴史がわかればすぐに理解できます。総括的に物を見るということがやはり指導の本筋だと思うのです。

—先生はかなもお書きになる?
 どうして書くのですかとよく聞かれるが、かなというのは草書の用筆というもの、字の本質というものをつかまえて極端に省略したものですからね。

—戦後、書道教育に関する映画を作られましたね。どういうお考えからですか。
 僕はね、書家であって書家でない……。
慶応義塾の書道の顧問もしたし、妹を書家に育てたりもした。結局は、書とは民族の文化であって、その真髄はどうしても残したいという思いがあるのだね。それは父の願いでもあったわけですが。
 映画を作る時には、本当に映画をよく見たし、撮影所にもいきました。文化映画なんてない時代でしたからね。
—現在の書写教育についてはどうお考えですか。
 国語の一つの技法としての形が書写教育になると思うのです。芸術的な教育ということになるとちょっと書写教育とは違ってしまう。そこに根本的な誤りがあり、混乱があると思いますね。
 わかりました。今日は長い時間、貴重な、また示唆に富んだお話をありあとうございました。
乾 


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