1906年 明治39年 丙午
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3月24日、台湾台北に生まれる。丈夫と命名される。父は乾角太郎(号淡江)。母フミ(号玉江)。
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父淡江(旧姓大村)は軍医として台湾に赴任し、現地の医師養成のための教育に従事していた。この間、もともと書に心を寄せていた淡江は当時台湾の三筆といわれた杜逢時・洪以南・許均などと好誼を得、文墨の世界に深く浸ることになった。やがて帰国するが、淡江は翻然として医業を捨て、神田一ツ橋に書法学院を設立し、書法教授としての後半生を歩む。
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母玉江も漢籍と書法に精通し、父長淵や三枝五江に師事した。
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1907年 明治40年 丁未 1歳 |
家族で帰国。 |
金華小学校に入学 のちに青山小学校に転校・卒業。名教中学校卒業後、法政大学に入学。 |
1929年 昭和4年 己巳 23歳 |
父淡江逝去(享年56歳) |
1930年 昭和5年 庚午 24歳 |
3月、法政大学経済学部卒業、家業の書塾を継ぎ、書法を教授する。長江と号す。
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書法は、父淡江、母玉江の指導を受け、篆刻は足達畴邨の指導を受ける。
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このころの研究テーマとしては「書態に現れた心象解剖を目的とするグラフォロジー」
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1932年 昭和7年 壬申 26歳
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慶應義塾大学書道会講師、法政大学書道会講師となる
(昭和18年まで)
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7月、淡江書法による教育映画『習字法の科学的解説』(35ミリ,2巻、文部省認定)を製作発表。母玉江著『淡江合理的書法』(昭和5年)の映画化である。同年8月に文部省認定映画に指定される。
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上記映画の内容は、書道文化史と書法を解説したもの。精巧キネマ商会撮影、慶文堂書店出版。発表試写会は、昭和7年7月25日、神田教育会館にて。昭和7年8月13日、文部省認定映画に指定され、文部大臣鳩山一郎、教育総監陸軍大将渡辺錠太郎、両氏の推賞題字を受ける
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12月、「中等学校用習字帖」上、中、下三巻、並びに「仝習字科教授資料」を編著 |
1933年 昭和8年 癸酉 27歳
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上記著作を刊行。中学校国語漢文科教科書として文部省認定となる。慶文堂書店。
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姉の節は、私立恵泉女学園で書道科教師となる。 |
1935年 昭和10年 乙亥 29歳 |
文化学院書道講師となる(昭和16年まで) |
1936年 昭和11年 丙子 30歳
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法政大学高等商業部書道講師となる(昭和14年まで)
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1938年 昭和13年 戊寅 32歳
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臨時東京第一陸軍病院にて職能教育指導教官として傷病兵の訓練科目「書道」を担当(昭和19年まで)
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この間、上記病院の職能教育部の委嘱により、数回に亘り研究報告をする。「書道教育に於ける機能障害者指導とその実際」「書道教育に於ける戦傷者指導とその実際」 |
尚、軍病院、文化学院、慶應、法政等にて書論、実技を指導する傍ら、「書態に現れた心象」(グラフォロジー)についての研究をすすめる。後に、戦災により資料を焼失。戦後も実験の再開を希求し続けた。 |
1943年 昭和18年 癸未 37歳 |
南洋興発株式会社東京事務所勤務(昭和20年まで) |
1945年 昭和20年 乙酉 39歳 |
南洋興発関係戦後処理業務(昭和22年まで)
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1947年 昭和22年 丁亥 41歳 |
株式会社後楽園スタヂアム勤務(昭和34年まで)
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日本基督教団原町田教会で受洗
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9月、母玉江逝去(享年72歳)
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慶應義塾大学書道会の再開、長江を中心に復員塾生により再発足する。講師となり、のちに顧問となる。 |
1948年 昭和23年 戊子 42歳 |
星野たみと結婚
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1949年 昭和24年 己丑 43歳 |
長男昭志誕生
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1951年 昭和26年 辛卯 45歳 |
長女尋誕生
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1952年 昭和27年 壬辰 46歳 |
長江の指導で、妹の須美は文京区小日向にて書道教授を開始、玉江の号を用いる
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1959年 昭和34年 己亥 53歳 |
株式会社フタバヤラケット製作所常務取締役 (昭和38年まで)
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1962年 昭和37年 壬寅 56歳 |
東洋大学文学部講師として書道実技・書道史・書道教育法を担当(昭和 年まで)。
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4月、教育映画『書法』2巻(16ミリ音画)を製作発表
(銀座ガスホールにて発表試写会) |
上記映画の内容は、腕の合理的な動き、筆の物理的性質から運筆、筆触の実態を詳述し、書法の要諦を解説したもの。撮影は日本ドキュメントフィルム。発表試写会は昭和37年4月18日、銀座ガスホール。 |
淡江社、再発足。(淡江社は、大正初期、乾淡江先生により創設された。淡江先生没後は、門下の会・淡江会として継続された。)
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1964年 昭和39年 甲辰 58歳 |
4月、乾長江翰墨展(個展) 於銀座竹川画廊 発表作品32点
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日本書道連盟参与の委嘱を受ける
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5月、新宿区中落合に長江教室を設け、門下の指導を再開する。
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1965年 昭和40年 乙巳 59歳 |
5月、乾氏翰墨展 於銀座竹川画廊 発表作品23点
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6月、淡江会を淡江社と改称。理事長となり、事務所を新宿区中落合に置く。(父淡江没後は、長江を中心として門下の人々によって淡江会が組織されていたが、淡江社と改称するとともに組織を整備拡充して、長江が理事長になり、新宿区中落合に事務所を置いた。これから、淡江社の活動はいっそうさかんになった。)
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1966年 昭和41年 丙午 60歳 |
5月、第1回淡江社翰墨展 於銀座三菱電機ギャラリー 発表作品7点
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慶應書道会OB有志の推薦により、父母に続いての永年に亘る学生指導の功績を多とされ慶應義塾大学特薦塾員に推挙される |
1967年 昭和42年 丁未 61歳 |
5月、第2回淡江社翰墨展
於銀座三菱電機ギャラリー 発表作品6点
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1968年 昭和43年 戊申 62歳 |
5月、第3回淡江社翰墨展
於銀座東芝展示フロア 発表作品9点
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1969年 昭和44年 己酉 63歳 |
6月、第4回淡江社翰墨展 於銀座東芝展示フロア 発表作品8点
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10月、乾長江翰墨展(個展) 於銀座東芝展示フロア 発表作品33点
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1970年 昭和45年 庚戌 64歳 |
12月、第5回淡江社翰墨展 於銀座東芝展示フロア 発表作品4点
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1972年 昭和47年 壬子 66歳 |
1月、第6回淡江社翰墨展 於銀座東芝展示フロア 発表作品4点
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1973年 昭和48年 癸丑 67歳 |
6月、第7回淡江社翰墨展
於新橋 東タイ画廊 発表作品4点
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全日本書道連盟会員となる
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1974年 昭和49年 甲寅 68歳 |
7月、第8回淡江社翰墨展 於東芝銀座ショールーム、ギャラリー 発表作品3点
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1975年 昭和50年 乙卯 69歳 |
10月、第9回淡江社翰墨展 於銀座十字屋画廊 発表作品2点
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1976年 昭和51年 丙辰 70歳 |
11月、第10回淡江社翰墨展
於神田東京YMCA101号室 発表作品4点
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『基本筆法』刊行。淡江社書法研究所発行。
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1978年 昭和53年 戊午 72歳 |
3月、『乾淡江書 岩田作兵衛翁記功碑』出版(長江拓)
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4月、乾淡江先生50年祭記念・第11回淡江社翰墨展
於新宿 東京金属健保会館 発表作品2点
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1979年 昭和54年 己未 73歳 |
11月、第12回淡江社翰墨展
於新宿文化センター 発表作品2点
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1980年 昭和55年 庚申 74歳 |
10月、乾長江小品展
於百芝山房(新宿中落合自宅) 展示作品57点
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1981年 昭和56年 辛酉 75歳 |
6月、第13回淡江社翰墨展
於新宿 東京金属健保会館 発表作品4点
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1982年 昭和57年 壬戌 76歳 |
1月より9月までの間、五回にわたり「入木抄」の公開講座を新宿文化センターその他で開催。
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1983年 昭和58年 癸亥 77歳 |
6月、第14回淡江社翰墨展
於新宿文化センター 発表作品2点
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11月より翌年7月までの間、四回「書法のルーツを求めて」の公開講座を新宿文化センターにて開催
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『乾長江作品撰』刊行
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『長江千字文 草篇』刊行。淡江社書法研究所出版
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1985年 昭和60年 乙丑 79歳 |
10月、乾長江傘寿記念・第15回淡江社翰墨展
於新宿 朝日生命ギャラリー 発表作品4点
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1988年 昭和63年 戊辰 82歳 |
5月、第16回淡江社翰墨展
於新宿 朝日生命ギャラリー 発表作品7点
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1990年 平成2年 庚午 84歳 |
5月、第17回淡江社翰墨展
於新宿 朝日生命ギャラリー 発表作品5点
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11月、淡江社 小品18人展
於有楽町朝日ギャラリーB室 賛助作品出品
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1991年 平成3年 辛未 85歳 |
5月、乾長江個展 於 ギャラリー新宿高野 展示作品57点
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第18回淡江社翰墨展
於有楽町 朝日ギャラリー 発表作品1点
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1993年 平成5年 癸酉 87歳 |
11月、乾長江米寿記念・第19回淡江社翰墨展
於 麻布工芸美術館 発表作品2点
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『王維九品』刊行。二玄社出版。
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『乾長江臨石鼓文』刊行。百芝山房発行。
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1994年 平成6年 甲戌 88歳 |
1月、乾長江書作展 於 山梨県立美術館。
第二会場は白州町・浅川画廊。 展示作品67点
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7月18日午前9時45分 永眠。
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